クォーター

トロヤ

トロヤ

ヴルタヴァ川流域にあるホレショビツェ、レトナ、ストロモフカは肥沃な土地で、半島に似た形をしています。この半島の北にはトロヤがあります。この果樹園地帯は、もともとOvenecと呼ばれていましたが、壮大なトロヤのシュテルンベルク宮殿にちなんで呼び名が変わりました。シュテルンベルク宮殿は、1679~85年にJean-Baptiste MatheyによりVojtěch Václav Sternbergの避暑用に建設されました。今日、このバロック式の内装と庭園は、国立美術館として利用されています。 この宮殿下には1969年に設立された植物園、宮殿の隣には1931年に一般公開された45ヘクタールの動物園があり、その豪華な装飾品や田園風景だけではなく、モウコノウマの飼育に成功していることもここならではの特徴です。モウコノウマは、今は野生で見られませんが、事実古代から存在しています。
レトナ

レトナ

ストロモフカは、北はヴルタヴァ川を境界とし、東はホレショビツェと隣接し、南には家々が帯状に立ち並び、その向こうにレトナ公園があります。レトナ公園の周辺には国立技術博物館があり、その豊富なコレクションで、クラシックカーやあらゆる時代の技術作品の愛好家たちを魅了しています。レトナ庭園はレトナ公園内にあり、プラハ城下のロイヤルガーデンの北にあるホトコヴィ・サディと直接繋がっています。1995年にホトコヴァ道路を渡る歩道橋が建築家Bořek Šípekにより再建築され、現在この2つの公園は繋がっています。プラハ城には、建築当初の特徴がかなり残っています。穏やかな公園、スポーツ用の敷地、ガーデンレストランの他、1891年のジュビリー展に向けて建てられ、1898年にここに移転されたアールヌーボー・ハナイスキー・パビリオンや、1958年に開催された有名なブリュッセル万国博覧会に向けて建築された美しいプラハの展望レストラン(Vyhlídková restaurace Praha)もあります。J. Hrubý, Z. PokornýとF. Cubrによって設計されたこのレストランは、当時の建築の傑作で、最近改装されました。 共産主義政権がレトナの地区計画に力を入れ、1950年代にレトナと旧市街を結ぶトンネルがレトナ公園内に建設され、その上にはスターリンとその共闘者たちの巨大像が建てられました。その完成直後、それまで評価されていた共産主義政権の卑劣な政策が明らかになり、建築同様に困難な解体作業が開始されました。結局のところ、共産主義政権さえも時代によって一掃されたのです。ビロード革命中には、ゼネラルストライキが行われて50万人がデモに参加し、これが古い共産主義政権を崩壊させる最後の一撃となりました。かつてスターリン像があった場所には、新しい時代を象徴するクロノメーターがあります。
デイビツェとブベネチュ

デイビツェとブベネチュ

デイビツェは、フラッチャニとプラハ城の北に位置します。早くも1088年に参考文献に記され、長い間、その農村風景を保っていました。その後、この農地は郊外の住宅地になりました。1930年代に邸宅が建てられ、ババの人々が移住するようになりました。Pavel Janákの規制プロジェクトに基づき整備され、その機能主義的建築は、第一共和国時代の一流建築家たち(J. Gočár、J. Krejcar、A. Beneš、J. Gillarなど)の技が集結したものです。デイビツェの東にはブベネチュが隣接して、ここからストロモフカ・ロイヤル野生動物保護区が広がっています。1320年にルクセンブルク家のヨハンが野生動物保護区としてこの地を利用しました。17世紀初頭には、ルドルフ2世により池や美術館が造られ、1804年に副摂政官Chotekにより一般公開されました。ブラディスラフ・ジャジエロとルドルフ2世の狩猟の城は、Jiří Fischerによって、ネオゴシック様式の副摂政官の夏の城に改修されました。1845年以降、この野生動物保護区はイギリス庭園に変わり始め、今日、このロマンチックな憩いの場は、天然保護区域になっています。ストロモフカの東には、プラハの見本市会場(Výstaviště Praha)が隣接していて、19世紀末期より、展示会や見本市が開催されているだけではなく、娯楽センターとしても利用されてきました。有名なマシューの展示会場がここに移転された他、屋根付きのプール、スタジアム、劇場、映画館、ラピダリウム(国立博物館)をはじめ、スポーツや娯楽を楽しめる施設が数多くあります。1891年にジュビリー展のために建てられた建物は、注目に値し、その鉄とガラスを用いた歴史溢れるスタイルは、19世紀の興味深い美術を物語っています。一方、Křižík噴水は、1991年のジュビリー展に向けて改修された現代の建造物です。
ブジェヴノフとビーラー・ホラ

ブジェヴノフとビーラー・ホラ

プラハ城の西と北東に、かつて森林地帯で後に農業地帯になった地区が広がっています。最初に入植が始まったのは、フラッチャニの西にあるブジェヴノフで、993年に聖アダルベルト司教が、ここにボヘミア最古のベネディクト会修道院を設立しました。現在も原型が残っているのは、11世紀に造られた印象的なロマネスク様式の地下室のみで、修道院の大部分は18世紀初頭にバロック様式に改装されました。聖マーガレット教会(klášterní kostel sv. Markéty)と修道院複合体全体に、数多くのバロック美術が残されています。ブジェヴノフ西部には禁猟区跡があります。Hvězda禁猟区は、フェルディナンド1世により設立され(1534年)、19世紀初頭まで野生動物が保護されていましたが、その後、公園になりました。現在のHvězda(星型の夏の宮殿)の形は、この禁猟区の名前に由来していて、1555年にチロル大公フェルディナント2世により設計され、実際に上から見ると六芒星の形をしています。 ブジェヴノフからそれほど離れていないところに、ビーラー・ホラ(白山)があります。ここは、多くのチェコの人々にとって悲劇のシンボルで、記念碑が、1620年11月8日に、裕福な皇帝のカトリック傭兵部隊と貧しいチェコのプロテスタント傭兵が衝突した場所を物語っています。混乱、無秩序、醜い殺戮がプロ軍隊の代名詞になり、以降300年間、チェコの国土はハプスブルク領の一部でした。ここに入植した上流階級の人々や大半のチェコ貴族、最も裕福な人々、有名な「民族の教師」の著者ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス)をはじめとする著名人がこの地を去りました。当時、ボヘミア住民の90%がプロテスタントで、カトリックへの改宗を拒むと、この地から追放されたり財産を没収されたりしました。三十年政争の終わりまでには、ボヘミア王国の人口が半分になりましたが、白山は、カトリック教徒の巡礼地になりました。18世紀初頭にここに聖母マリア大聖堂(聖母教会)が建築され、K. D. AsamやV. V. Reinerのフレスコ画が数多く飾られています。
ホレショビツェ地区

ホレショビツェ地区

ヴルタヴァ川がちょうどU字型にカーブする地点に位置するこの地区に、次々と建物が建てられたのは、19世紀後半のことです。それまでは何世紀もの間、畑や牧草地が広がっていました。今もなお、ホレショビツェ地区には、緑に包まれた広大な公園が2ヶ所あります。市内中心部を見渡せるレトナー公園と、その北側には、移動遊園地や見本市会場が隣接するプラハ最大の公園ストロモフカがあります。
スミーホフ地区およびアンデル地区

スミーホフ地区およびアンデル地区

スミーホフ地区はプラハの住宅街および工業地域で、ショッピングモール、醸造所、工業用建築、映画館がある他、雰囲気の良いレストランやバーが立ち並び、夜も楽しめます。ヴルタヴァ川の西岸に位置し、ビール好きにはたまらないスタロプラメン醸造所もあります。
カーリン

カーリン

北にヴルタヴァ川やホレショヴィチェ、南にはジシュカやヴィトコブ丘があり、西にニュータウン、東にはリベニがあります。
ジシュカ

ジシュカ

この地区は、フス軍のリーダー、ヤン・ジシュカを称え名付けられました。ジシュカの丘の南部にあり、1420年7月14日に起きたヴィトコフの丘の戦いの舞台です。この戦いでは、農民により結成されたジシュカ軍が、神聖ローマ皇帝ジギスムント率いる軍を徹底的に打ち負かしました。ヴィトコフの丘には、馬に乗ったヤン・ジシュカの巨大な像があります。
ヴィノフラディ

ヴィノフラディ

ヴィノフラディは、プラハ2の行政・自治体の中心地で、市内中心部からもわりと近くに位置します。周辺にはプラハ歴史地区の主要鉄道駅があります。
新市街(The New Town)

新市街(The New Town)

New Town (新市街)(Nové Město) は1348年皇帝シャルル4世によって設立されました。これはプラハで最も大規模な都市計画条例の一つで、世界でも特有なものの一つです。
Vyšehrad(ヴィシェフラット)

Vyšehrad(ヴィシェフラット)

Vysehrad (ヴィシェフラット)は10世紀、プラハ城(Prazsky hrad) 建設よりは明らかに遅い時期に設立されており、何世紀にもわたりプラハ城より劣る位置に存在しています。これは当初王子であり、後に最初のチェコ王となったVratislav IIが居住していた1061年から1092年間を除いて特に真実で、彼は城を再建築し、石造りとし、そこに教会の参事会を設定しました。
ヨゼホフ(Josefov)

ヨゼホフ(Josefov)

旧ユダヤ人地区であるJosefov(ヨゼホフ)はユダヤ人商人や換金商の移民から成り立ちました。これらの人々はSlovanský ostrov (Slavic Island) の北端、ヴルタヴァ川の昔の浅瀬に近接しており、この地域は現在国立劇場の逆側からヴルタヴァ川の当初の川岸にある Kaprova ストリートにまで広がっています。中世紀の反ユダヤ主義のため、タウンは1848年には総計7つにおよぶゲート付きの強固な城壁が備え付けられていました。
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