歴史

初期の始まりとプシェミスル朝(870-1306年)

ローマ時代の記録では、プラハ周辺に住んでいたケルト族のボイ族の歴史をたどることができる。彼らはこの地をボイオヘムムと呼んでいた(これは「ボヘミア」と似ていると思うかもしれないが、これが名前の由来である)。 しかし、6世紀になると、ケルト人に代わってスラブ系民族がこの地域に進出してきた。

プシェミスル朝は、現在プラハと呼ばれている地域に最初に現れた注目すべき王朝である。 最初のメンバーとして知られているのは、ビザンチウムから来た聖キュリロスと聖メトディウスによってキリスト教に改宗したボーシボイ王子とその妻リュドミラである。 しかし、ボヘミアが西ヨーロッパとつながっていたこともあり、ビザンティン正教がローマ・キリスト教に取って代わられるのに時間はかからなかった。 一家がフラッチャニの邸宅に移ったのも、ボルジボイ公の時代である。

ヴァーツラフ1世(ヴァーツラフとも呼ばれ、有名なクリスマスキャロルの題材にもなっている)は、祖母に殺される前に、彼がクリスチャンであることを確認した。 ヴァーツラフ1世もまた、実の兄に殺された。伝説では、祖母と同様、キリスト教の信仰を理由に殺されたとされているが、これには異論があり、多くの歴史家は、家族間の権力闘争が両者の死の原因であろうと述べている。 しかし、ヴァーツラフ1世とルドミラは死後も聖なる人物とされ、二人ともボヘミアの最初の守護聖人とされた。

プラハは、フラッチャニにある王宮と旧市街のドイツ商人の居住地を中心に発展し始めた。 965年にコルドバからの使者イブラヒム・イブン・ヤクブが書いた記録には、プラハは村よりは大きいが町ほどではないと記されている。 また、プラハはヨーロッパで最も商業的に豊かな場所であると述べている。

993年、プラハの2代目司教(プラハが司教区になったのは973年)であるヴォイチェフ(アダルベルト)が、この街で最初の修道院ブジェヴノフを設立した。 999年にプラハの第3の守護聖人となった。 第4の守護聖人は、1032年にSázava修道院を設立し、1204年に列聖されたProcopius(Prokop)である。 ウラジスラフ2世の統治下で、ますます多くの修道院が設立された。 同じ頃、マルタのテンプル騎士団は、川にかかる最初の橋のたもとに修道院を建て、ウラジスラフの王妃ユディトにちなんで名づけた。

1212年、ボヘミアはシチリアの金牡牛によって王国に昇格し、神聖ローマ帝国の7人の選挙人のうちの1人を国王に据えることになった。 プシェミスル朝が最も力を発揮したのはオタカル2世(1253-1278)の時代であったが、彼の支配下で王国はバルト海からアドリア海までを征服し、彼は皇帝候補とさえみなされた。 彼の治世下、プラハは建築だけでなく、教育の中心地にもなった。 また、城の下には南ドイツの入植者たちが住むマラ・ストラナを設立した。 妹のアグネスも、旧市街に有名なホスピスを設立した。

1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺され、プシェミスラフ王朝はついに終焉を迎える。

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